『トム&ジェリー』は面白い。特にアニメ-ション・ファンでなくてもいいから、「あなたはトム&ジェリーは面白いと思いますか?」と聞いてみるといい。ほとんどの人が「面白い」と言うに違いない。数ある外国アニメの中でも、再放送の回数が群を抜いている事実を見れば、当然であろう。(このあまりに大衆に受け入れられてしまったことが、逆に日本におけるこの作品の研究が遅れてしまった原因の一つではないだろうか。マニアは、見る機会の少ない作品に燃えるものだから。)
『トム&ジェリー』(以下T&Jと略す)が最もおもしろい時期というのは、やはりウィリアム・ハナ&ジョセフ・バーベラ(以下ハナ&バーベラと略す)の手がけた時代、しかもその中期であることに異論はないだろう。実際、TV放映されるT&Jを見て私が最も印象に残っているのはこの時期の作品である。また、一般的に人々がT&Jという漫画映画シリーズに対して抱くイメージとも、この部分にあるらしい。もしこのシリーズが製作順に放映されていたら、T&Jはまた違った見方ができたのではないだろうか。
◆ネコにネズミがかみついた
最盛期のT&Jのイメージを持ったまま、ごく初期の作品を見直すと、「おや?」と思うことがある。それは、トムが徹底して悪役になっていることである。ごく常識的なネコとネズミの力関係がそのまま登場する。トムはジェリーを見つけるとさんざんいたぶる。トムの表情は、ゆったりとした動きもあいまって、実に憎々しげである。コテンパンにやられたジェリーは知恵を使って逆襲に出る。トムがさんざんな目にあって、END。「悪い猫はやっつけられてしまいました、めでたしめでたし。」という、弱者が強者を倒すカタルシスが作品を支えるのである。
しかし、このパターンはくり返され、次第にジェリーの反撃は増えてくる。その結果、トムのキャラクターは憎たらしさよりも、間の抜けた面が強調されるようになっていく。そして、当初善玉として設定されたジェリーよりも、トムの方が同情を引くキャラクターになってきたのである。
「トムさんって、かわいそうだね。」 と、いうのがテレビを見た人たちの大方の印象らしい。なぜに、トムは視聴者の同情を集める存在なのだろうか?
ジェリーはいつのまにかただのネズミの域を脱し、自分の部屋(自分の空間)を持つに至る。例えば、『台所戦争』THE LITTLE ORPHAN(’49)の冒頭。椅子に寝そべって、ネズミ捕りからエサのチーズをつまみ食いしながら新聞を読むジェリーには、自由人的な余裕を見ることができる。
それに対して、トムの位置はというと、あくまで居候なのである。広い部屋の片隅のベッドだけが彼の唯一のやすらぎの場である。たしかに彼は自由に家の中をうろついているが、ひんぱんに登場する黒人のメイドにはさからえない、従属する存在にすぎないのだ。ジェリーのようにずうずうしく家の壁の中に居座り、欲しいものを掠奪しているわけでなく、主人やメイドの「出ていけ」の一言におののきながら、安定した生活(?)を送っているのだ。彼が主人に対し存在価値を示せるのは、唯一ネズミを捕ることなのであるが、相手はジェリー、それさえ困難な状況下にある。
おや、こんちトムさん、御主人様のお出かけをいいことに、友達を呼んできました‥‥‥友達とはご存じ、ブッチをはじめとするのら猫トリオである。飼いネコのはずのトムの友人は、なぜか住所不定のネコばかりなのだ。それはトムの理想の姿が実はブッチのようなのらネコだからではないだろうか。誰にも規制されることのない自由な生活へのあこがれ。しかしトムには、今の安定した生活から逃げ出す度胸はないのだろう。そんな、情けないが同情すべき性格が、トムにはある。
また、ジェリーやアヒル、金魚などを食べようとするが、非情に撤しきれないのもトムの性格である。もしもジェリーや弱い動物が危険な目にあったら、驚いて思わず救けに行ってしまう‥‥‥そんなお人好しな面が、トムが悪役に成り切れなかった要因だろう。
1963年からチャック・ジョーンズたちの演出した第3期、2匹は家の中にいることも少なくなる。トムは家の中にいたとしても、主人になっていることも多い。家の中での立場の弱さ、根本的な人のよさというトムにとっての重要な要素が欠落したとき、トムは怒りっぽいだけのいばった、ただの猫になってしまう。
◆なかよくけんかしな
さて、このシリーズ中盤、T&Jの対決は「きょうもやってますねえ」といった“兄弟げんか”の様相を呈してくる。それは、この2匹が敵対関係にあったとはいえ、所詮は一つ屋根の下に住む関係にあったことのだから、当然のことであったのかもしれない。
また、「トムは決してジェリーを殺せない」という不文律があるのだから、戦いは「ごっこ」にならざるをえない。ある一線を越えてしまうことは、T&Jの世界観を破壊してしまう。『パーティ荒し』TWO MOUSEKETEERS (’52)のラストシーン、任務に失敗したトムが首を切られてしまうシーンは、(直接的な表現ではなかったが)ひどく違和感を感ずるのだ。 この中期(50年代)、ジェリーがいじめられるパターンは減り、トムが悲惨な目に会うという役どころが定着する。そんなトムの弱い立場をさらにクローズ・アップするために登場するのがブルさんことスパイクである。このブルドッグは40年代から登場している。2匹のけんかに巻き込まれ、ジェリーはまんまとスパイクを利用してトムをやっつけるのだが、50年代に息子のタイクが登場するようになる頃には、少々様子が変わってくる。トムと同じ家に住みながらも、庭の犬小屋に住み、一児のパパとして貫禄に満ちているスパイクは、トムにないものをほとんど兼ね備えているといっていい。その最たるものといえば、「番犬としての誇り」であろう。(トムは未だにネズミ1匹捕れない、役立たずのいそうろうなのである。)
毎日けんかに忙しい「兄弟」トムとジェリーにとって、スパイクは「となりのおじさん」的存在である。2匹のけんかを見ると、“大人の良識”に基づいて“弱い者いじめをする”トムをこらしめる。そして弱き者、ジェリーに対して優しくするわけだ。(弱者がこれ見よがしに弱さを世間に訴えることで、最も強い存在になれることを幼ごころに知ってしまったのですね、私は‥‥‥。)
実はこの“兄弟げんか”のニュアンスは、ハナ&バーベラのT&Jにおいてはかなり重要な部分なのだ。T&Jはアメリカではスタンダードな2者対決型漫画映画でありながら、テックス・アヴェリーの傑作群、さらにはワーナー漫画におけるC.ジョーンズの『コヨーテとロードランナー』シリーズ等との根本的な相違点を持っているのだ。
後にT&Jを演出したC.ジョーンズは言う。
「私は、ついに、ジェリーのキャラクターをつかむことができなかった。」
結局、ジョーンズはT&Jをコヨーテ&ロードランナーに模した演出を展開することになる。そのため、彼にはT&Jを描くことは出来なかったのだ。(それは決してハナ&バーベラとC.ジョーンズとの力量の差ではなく、指向の相違である。)
根本的な相違点 それは、対決する両者のコミュニケーションの有無の問題である。
コヨーテにとってロードランナーはおよそ理解できない世界の住人であり、食用の鳥として以外の興味はない。ドルーピーとスパイクにしても、スパイクはひたすらドルーピーの地位や財産を奪おうとし、ここには一方通行の感情しかない。親愛の情など入る余地はないのだ。
ところが、T&Jではどちらかが家を追い出されてしまうと、逆に助けようとする話が印象深い。T&Jのように対立する両者の間にしばしば心の交流が描かれる作品というのは意外に少ないのだ。(ギャグやアクションよりドラマ重視の日本のアニメには『ルパン三世』のルパンと銭形警部を例に挙げるまでもなく、結構多い部分なのだが。)T.アヴェリーのギャグ感覚を取り入れ、スピーディーなギャグ漫画に変化していったT&Jも、その根本的な感情は、変わっていなかった。
アヴェリーやジョーンズの演出は、純粋にギャグを描くため、そのキャラクターへの感情の移入をストップさせる。失敗(自滅)を続けるコヨーテやスパイクに愛らしさを感じさせず、観客に徹底したサディスティックな(又はマゾヒスティックな)興奮を起こさせるに至るまで、ギャグのつるべうちを続けるのだ。2者にクールな関係があるからこそ、ギャグは強烈なインパクトを生む。キャラクターよりもギャグが優先するのである。 C.ジョーンズの作品中、『まるでツイていない日』 BAD DAY AT CAT ROCK(’65) において、トムは徹底してコヨーテの投石器ネタのデフォルメパターンを演ずる。鉄骨のシーソーでなんとかジャンプしようとするのだが、何度やっても失敗する。ジェリーは見兼ねて、名案とばかりにENDタイトルを出して幕とする。印象としてトムの責め苦は永遠の物となってしまったが、ここにギャグがキャラクターの感情より優先してしまい、ハナ&バーベラが作り上げてきた「T&Jらしさ」が欠落していることに気がつく。
トムとジェリー、なかよくけんかしな‥‥‥テレビによって初めて彼らに出会ったファンにとっては、忘れられない日本版主題歌であるが、わたしたちがこの作品に抱くイメージというものは、この主題歌に見事に集約されているといっていい。楽しくながめていられる2匹のけんか、それが魅力なのである。
T&Jが広く一般大衆に受け入れられたのはギャグの質云々よりも、そのキャラクター性ゆえだろう。愛すべき登場キャラクターと、ギャグ、アクション、スピード感、そういった要素ががそれぞれを破壊することなく、バランスを保って、年令や趣味を問わず誰にでも楽しめる形で完成していたのが黄金期のT&Jだったのだろう。傑作は時代を越え、これからも新しいファンを開拓していくにちがいない。